禅林寺のご案内

禅林寺

禅林寺の起源

元禄十二年(一六九九)八月台風のために建物が倒壊したので、松之坊は寺社再建不可能のために寺社地を村方へ返還した。
そこで村方一同は協議の末、江戸本所石原に在った黄檗宗賢洲元養禅師に寺社建立のことを懇請した。
かくして村方一同より官へ願い出で、元禄十三年十二月、黄檗宗霊泉山禅林寺と改称、江戸神田紺屋町駒田孫右衛門が開基となって堂宇伽藍の経営も着々と進み、当時天下の大小名より尊信を集めていた黄檗大眉門下の梅嶺道雪禅師を請して開山とし、賢洲禅師自ら第一代となり宗風の宣場につとめ、黄檗宗大本山万福寺の直末寺となり、現在に至る。
八幡社とは明治初年の「神仏分離」令によって分離し、塔頭で あった松仙院(八幡社を管理)と円通庵は廃仏毀釈のころ本寺に合併した。

明暦大火と連雀

明暦三年(一六五七)正月十八日、江戸本郷丸山町の本妙寺から出火した火事は折からの烈風のため大火となり、焦土の広さ二里八丁、死者十万七千余人と記録されている。世にこれを振袖火事という。この惨事によって、幕府は各所に適当な火除地(防火地帯)を作り、一朝有事の備えとした。
万治元年(一六五八)神田連雀町もまたこの火除地として、住宅の再建を許されず、罹災者二十五世帯には、野方領茅場千丁野の内に代地を賜り、開拓農民として移住せしめた。これが現在の三鷹市下連雀のはじまりである。
この当時は、宗門改め(現在の戸籍調査にあたる)が非常に厳格であって、その手続は、年々寺院が調査奥印して、寺社奉行に届け出たものである。然るに元神田連雀町民たちの入植生活においては、宗門改めを受ける寺院がないため、寛文四年(一六六四)各主松井治兵衛外年寄、組頭などの連署をもって寺社創建の議を幕府に請願した。時の大老松平伊豆守及び寺社奉行石谷将監は代官野村彦太夫に命じて検知せしめ、寺地二万坪、社地一万坪として、寺社の創建を許可した。これによって連雀の住民は、直ちに寺社を創建し、江戸築地本願寺の寺中松之坊を迎え、年々宗旨判形すなわち現地の戸籍調査をなして、寺社奉行に届け出ていたのである。

合同墓 「蓮池塔」のご案内

「蓮池塔」は供養する遺族・親族のいない人、またいなくなることが確実な人、後継者がいない為、公営墓地・公園墓地等の使用権がなくなってしまう人の為の合同墓です。
埋葬後、他の墓所に改葬することは可能です。
また、生前から予約することもできます。

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